福岡地方裁判所大牟田支部 昭和43年(借チ)1号 決定 1968年9月26日
申立人
青木ハルノ
代理人
古賀幸太郎
相手方
河口富嗣夫
主文
本件申立を棄却する。
理由
一本件申立の要旨は、「申立人は別紙目録(一)の土地(以下、本件土地という)を現在相手方から賃借し、右地上に同目録(二)の建物(以下、本件建物という)を所有している。ところで右建物は昭和三六年六月以降、井ノ口滉に賃貸中であるが、申立人は負債整理の都合上、この際、右建物をその賃借権とともに同人に譲渡することとしたい。同人は本件土地の隣りに土地・建物を所有して料亭を営み、本件建物も料亭の一部として既に使用しているのであるから、同人が右賃借権を譲り受けても本件土地建物の使用状況に格別の変更もないし、同人の資力ないし人的信用は申立人に優るとも劣らないから、そのために相手方に不利となるおそれもない。しかしながら、申立人と相手方間には本件賃借権をめぐつて紛争があり、これを譲渡することについて相手方と事前に協議し承諾を得ることも困難であるので、右譲渡につき賃貸人の承諾に代わる許可の裁判を求める。」というものである。
二これに対する相手方の主張の要旨は、「相手方が申立人に対し本件土地を賃貸したことは認めるが、昭和三六年六月二二日、相手方は申立人に対し、申立人の賃料不払いを理由に契約解除の意思表示をしたので、右賃貸借契約は当時終了したものである。仮りにそうでないとしても、申立人が井ノ口滉に本件賃借権を譲渡するときは次の理由によつて賃貸人たる相手方に不利となる。すなわち、昭和三六年六月二二日、相手方及び相手方の実姉河口良子は、申立人から本件建物を賃借した井ノ口滉が右建物の改築に取りかかり、本件土地に変更を加えはじめたのでこれを見分に行つたところ、同人は不法にも住居侵入罪で相手方及び河口良子を告訴し、相手方及び河口良子は起訴猶予処分を受けたことがある。また、風評によれば、同人は風俗営業を営むかたわら、不動産取引のブローカーや高利貸なども営み裁判沙汰も多く、告訴マニアとのことでもある。相手方としては、このような者と契約関係に立ちたくないのであるから、本件申立は認容さるべきではなく、和解ないし調停に応ずる意思もない。」というものである。
三本件で取調べた資料によると、申立人の亡夫青木茂は昭和二一年五月頃、相手方から本件土地を木造建物を所有する目的で期間の定めなく賃借し、その頃、右地上に本件建物を建築し、その後、昭和三六年一月二二日に青木茂が死亡したことにより申立人が賃借人たる地位を承継したものであることが認められる。
そこで、右賃貸借が消滅した旨の相手方の主張について検討するに、本件に顕れた限りの資料に基づけば、昭和三六年六月二二日現在では申立人に賃料滞納があつたとは未だ認められず、相手方がなした契約解除の意思表示は効力を生じなかつたものと判断される。
四そこで、進んで、申立人のいうような賃借権の譲渡がなされると賃貸人たる相手方に不利となるおそれがあるかどうかを検討する。
(一) 資料によれば、次のような事実を認めることができる。
1 申立人の亡夫青木茂は本件建物で荒物商を営んでいた者であるが昭和三五年初め頃から患い、昭和三六年一月二二日死亡した。当時の本件土地の賃料は一カ月金四二〇〇円であつたが、右のような事情で昭和三五年度以降の賃料は全額滞納し、昭和三四年度までの賃料にも一部滞納があつた。夫に亡くなられた申立人は、このままでは生活ができないし、賃料の支払いもできないことから、隣地で料亭を営む井ノ口滉に本件建物を譲渡したいと考え、先ず滞納賃料分として一〇万円を同年四月に相手方の姉河口良子に支払い、青木茂が死亡したことを告げた。そしてその頃、本件建物を井ノ口に譲渡したいので賃借権の譲渡を承諾して欲しい旨、同人の妻を同伴の上申入れた。これに先だち、申立人の右の申入れとは別途に、井ノ口夫妻は河口良子に本件土地の売却方を申入れ、同女に断わられたいきさつがある。河口良子は申立人の前記申入れも断つた。
2 ところで、相手方は昭和一五年一月一八日生れで昭和三六年六月当時は予備校生であつた。河口良子は大正一五年八月二六日生れで昭和三六年当時、警察吏員で、大牟田警察署に勤務していた。右の姉弟の母は昭和二〇年に、父は昭和二一年四月に相次いで亡くなり、河口良子が弟である相手方の後見人となり親替りを勤めた。本件土地は相手方が家督相続し、祖母である河口シノブが相手方の代理人として青木茂に賃貸したものであつた。しかして青木茂の賃料支払いは滞り勝ちであり、再三、取立てに赴かなければならず、同人との契約関係はわずらわしい事であつた。また、河口良子は警察署に勤務していて井ノ口に対する風評が必ずしも芳しいものばかりでないことを知つていたので、同人と契約関係に立つことを避けようとした。河口良子が井ノ口や申立人からの前記の申入れをいずれも断つたのは、右のような事情によるものである。
3 本件賃借権の譲渡について相手方の承諾を得られなかつた申立人は止むなく、昭和三六年六月、本件建物を井ノ口に賃貸する挙に出た。井ノ口はまた、早速、賃借した右建物の改造工事にとりかかり、本件土地の周囲にあつた古い板塀も美観上、コンクリート塀に取替えにかかつた。本件土地の利用権が本件建物の賃貸という形式で結局井ノ口に移転したことを同月二一日に申立人から聞き知つた相手方と河口良子は、翌二二日、本件建物の賃貸は本件借地の無断転貸になる、また本件土地の賃料は、かつて増額されたから未だ滞納分がある、また本件賃貸借契約には特約として地上建物の増改築及び転貸の禁止並びに本件土地上における一切の模様替えの禁止条項があつたとして、申立人に対し、これらの債務不履行を理由とする契約解除の意思表示をし、かつ、井ノ口がはじめた前記工事の程度を証明し、また本件土地境界が後日不明確となつた場合に備えて証拠を保全しようとして写真屋を同伴して本件土地に臨み、附近一帯の工事の模様を撮影した。その際、相手方らが本件建物自体に立入つたと認むべき資料はない。
4 そこで井ノ口は直ちに、相手方及び河口良子が「共謀の上、写真屋を同伴し、告訴人が青木ハルノより賃借し占有看守している家屋に無断で侵入し、近隣の状況を勝手に撮影した」旨の告訴状を作成して同日中に大牟田警察署に赴き、「警察が何か」「公務員が何か」と署内で呼ばわり、執務中の河口良子の面前で右の告訴状を係官に提出した。右は住居侵入罪として立件され、同年七月一七日、福岡地方検察庁大牟田支部に送付され、相手方の弁護人の説得で同月二一日、井ノ口は右告訴を取下げ、同年八月四日、起訴猶予処分がなされて落着するにいたつたが、その間に、相手方は右事件に関し、警察の取調べを一回受けた。
5 申立人は現在六四才、本件建物を一カ月一万三〇〇〇円で井ノ口に賃貸したのちは肩書住居地に転居し、化粧品の販売外交員をしているが、外交員としての月収は六〇〇〇円であり、健康もすぐれず、借金も有るという。
井ノ口滉は四六才、本件土地の隣地に料亭「ひな菊」とカフエー「祇園」を経営するほか大牟田市内でキャバレー、熊本県玉名市で旅館をそれぞれ経営し、商工会議所議員や業者組合の理事長、町内の相談役などの役職にもついている。しかして、同人は現在、本件建物を主に「ひな菊」の仲居の宿泊所として利用しているが、更に事業を拡張するため、本件申立が認容されたならば、買取つた本件建物を建替えたいというものである。
相手方は現在二八才、福岡県職員で、まだ独身である。河口良子は四一才、現在も警察吏員として大牟田警察署に勤務している、未婚である。相手方の肩書住所地に姉弟は同居している。
おおよそ、以上のことがいずれも認められる。
(二) そこで、これらの事実に相手方の主張その他本件に顕れた事情を総合し考慮すると、なるほど、井ノ口滉の経済的信用は大である。また、同人について所謂社会的信用なるものを検討してみても、特にこれを危ぶむべき事情は無い。この点、相手方は、同人が風俗営業を営む者であることを指摘するが、このことを同人の社会的信用の問題として把えてしまうことには躊躇せざるをえない。また、相手方は、同人に裁判汰沙が多いことを指摘する。たしかに、当裁判所には同人を当事者とする民事事件が幾つか係属したし、現在も数件係属しているが、これとて、同人の、この地方における活躍の一端を語るものであるかも知れない。また、告訴、告発の制度が何人にも活用さるべく設けられているとなれば、もし同人の利用度が仮りに高かつたとしても、一面、同人の法知識ないし権利意識の程度を示すと、これを観察することもできないわけではない。このように、価値判断は多面的になされうるから、或る人格を、社会的信用という観点から一般的に云々することは、今日では誤謬が多く、また個人尊重の時流にそぐわない観が無いでもない。
しかし、ここに観点を変え、相手方が指摘する右の各事実が相手方姉弟にどのような心理的影響を与えるものであるかを考察することは、賃貸借関係をもつて、賃貸人と賃借人間の個別的で継続的な信頼関係を基調とするものと理解するかぎり、必要なことである。
ところで、前記した相手方と河口良子の生い立ちからすれば、この姉弟間には一方の恥辱は他のそれとなり、他への侮辱は一方へのそれともなる一種の共感関係があつたとみるのは自然である。まして、姉弟が女子供であるが故に他より軽んじられたと共々に感じたときは、一層のことであつたと想像されるが、この姉弟には、前認定のような亡青木茂の並み外れた長期にわたる賃料不払いも、井ノ口が、本件土地の利用を、本件建物の賃借という形式で結局手中に収めたということも、そして、井ノ口が、相手方が地主であり、河口良子が地主の姉で警察吏員であることも充分承知の上で敢えて姉弟を告訴したということも、すべて、姉弟に対する侮辱であり、姉弟の恥辱として受取られたもののようである。そしてこのようないきさつがあつたとすれば、井ノ口に対し、姉弟が今日に至るも悪感情を抱きつづけているとしても無理からぬことのように思われ、相手方が同人について指摘した前記の事情が、相手方姉弟には格別の意味合いをもつて受取られているとしても致し方ないことである。してみれば、相手方と本件賃借権の譲受予定者である井ノ口との間に賃貸借権関係を形成することは相手方に酷なことであり、相手方に不利となることであると判定するのが相当である。
借地法第九条の二の「賃貸人に不利となるおそれ」の有無を判定するにあたり、賃貸人の感情を重視し過ぎては右法条を設けた趣旨にもとるけれども、譲受予定者の経済的信用やその他の対世的信用がどのように大であつても、賃貸人側に、そのようなことにかかわりなく、そのようなことによつて稀釈されることのない個人的悪感情や不信が存在する場合のあることは否めないし、その個人的悪感情や不信が人間自然に根ざし、その由つて来たつた源にさかのぼつた場合に、一般からもこれを諒とできるものであるならば、その個人的感情は尊重されなければならないし、保護されもしなければならず、前記法条は、このような個人的感情を無視したり軽視することを許したわけではなく、むしろ、このような感情への適切な配慮のなされることは、同法条の充分期待するところであると解されるのである。
五以上のとおりであるから、さらに審究するまでもなく本件申立を棄却することとし、主文のとおり決定する。
(井野三郎)